グイノ・ジェラール神父の説教
B 年
年間の主日
第2から第12まで
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年間第10主日
年間第11主日
年間第2主日 B年 2018年1月14日 グイノ・ジェラール神父
サムエル記上3,3-10、19 1コリント 6,13-15、17-20 ヨハネ 1,35-42
神との出会いはいつも仲介者を通して行なわれます。 このように、年老いた祭司エリは若いサムエルに神の言葉を聞く方法を教えています。 同じように洗礼者ヨハネは「神の小羊」に従うように教えています。 祭司エリと洗礼者ヨハネは神への道を教えましたが、その後、彼らは相手に強制的な指導をせずに謙遜に退きます。 ですから、若いサムエル、アンドレ、ヨハネは神ともっと深くかかわる責任を取らなければなりませんでした。
洗礼を受けた私たちの使命は、ちょうど祭司エリと洗礼者ヨハネと同じです。 私たちも謙遜と尊敬を持って神の道の入り口に求道者や洗礼志願者を導くように招かれています。 私たちが強制的に人々に神の道を歩ませることは出来ません。 また彼らが洗礼の恵みを受けたくないのなら無理強いしてはいけません。 私たちの助けと導きは、忍耐と信頼に満たされる必要があります。 なぜなら、信仰の道に歩めば良いと私たちが思う人の心に、神が自由に働くように私たちは望むべきです。
聖パウロは日常生活の生き方と霊的な生き方を結び合う神秘的な絆について、コリント教会の信徒への手紙の中で語りました。 と言うのは、神に近寄るために神を探し求める私たちの霊的な努めが、日常生活の生き方と上手く釣り合うことが肝心です。 イエスに質問し、イエスに従いながら、彼の言葉を心に思い巡らすことによって、人は神との親密な現存を味わうことができると、聖ヨハネは自分が書いた福音を通して教えています。 イエスは父なる神の方へ導く、道・真理・命であることを私たちは良く知っています。
今日、ご自分の教会の中に私たちが集まっていることをイエスはよくご覧になっています。 そして私たち一人ひとりに次のことを尋ねます。 「何を求めているのか」と。 このように尋ねるイエスはご自分と対話するように誘っています。 それは自分自身を知らせるため、そして私たちを父なる神に近づかせながら、神の神秘を深く味わわせるためです。 イエスは謙遜であり、柔和な方(参照:マタイ11,29)ですので、彼は尊敬と謙遜を持って私たちの心を変え、父なる神に向かわせ神の近くにゆっくり導き案内しています。
確かに、私たち一人ひとりはもっと深く神を知ることや神のみ顔を仰ぎ見る希望を持っています。 自分自身を「神の顔」として示されたイエスは、私たちの期待を満たすお方です。 「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14,9)とイエスはフィリポに言いました。 キリストと留まることによって私たちは父なる神を早めに見つけるのです。 受けた信仰のお陰で、私たちは「聖霊の神殿」となりました。 この神殿の中に神は住み、私たちを待ち望みます。
確かに、キリストの死と復活によって救われた人々の心に、神は留まります。 そして「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているのです」(参照:ローマ5,5)。この聖霊はイエスの全生涯を満たしています。
ですから私たちに示された神の慈しみと愛のために絶えず感謝しましょう。 信頼を持って、若いサムエルの言葉を借りて「主よ、お話ください。 僕は聞いております」と私たちも言いましょう。 それは神の神秘にもっと深く入るためです。 アーメン
年間第3主日 B年 2018年1月21日 グイノ・ジェラール神父
ヨナの預言 3,1-10 1コリント 7,29-31 マルコ 1,14-20
今日の日曜日の典礼は、回心と黙認を見せるように私たちを招きます。 第一の朗読は預言者ヨナを紹介します。 ニネベの人々にメッセージを伝えるように神はヨナに願いました。 ニネベの人は昔からイスラエルの恐ろしい敵でした。 ですから、ヨナにとってはこの使命を実現するには「ミッション:インポッシブル(果たすことが絶対にできない使命)」です。 ですから、ヨナは逃げることにしました。 しかし神から逃れることこそ到底無理なことです。 結局、ヨナは神から委ねられた使命を果たしました。 そして自分が伝えた言葉を聞いて、ニネベの人々が皆回心しようとするのを見て、預言者ヨナは非常に驚きました。
ヨナの物語のメッセージは次のことです。 神はすべての人を深く愛しているので、罪のある人を赦すために彼らの心の動きを待っていらっしゃいます。 預言者ヨナの「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と言う叫びは、単なる警告の叫びでした。 神はいつもご自分の言葉に心を開く人をすぐに赦します。
ヨナの物語の第二のメッセージは次のことです。 神は宇宙万物の神です。 ですから神はイスラエルの民と同様に、すべての人、イスラエルの敵でさえも、深く愛しています。 どこへ行っても、どんな状態に置かれていても、(たとえば、船の上でも・魚の腹の中でも・異邦人の町でも)人は神に向かって祈ることができます。 神の現存は国の境や国の宗教や政治体制によって制限されることはありません。 神の現存も、神の慈しみも普遍的です。
ヨナの物語の第三のメッセージは、偏見の考えと軽蔑する眼差しを変えるように私たち一人ひとりを誘っています。 「未信者だ」と言われる人は、度々私たちよりも神の言葉に耳を傾けて神の言葉をよく知ろうとします。ニネベの人々が示した態度と同じように、現在でも信者でなくても大勢の人が神の言葉に対して興味を現わしています。
ヨナの物語はバビロン追放のかなり後に書かれたものです。 その時、預言者たちは「神はイスラエルの民だけではなく、全人類を救いたいこと」を思い起こさせたかったからです。 そこで、ヨナの物語の第四のメッセージは、次のことを特に伝え理解させようとします。 即ち、神は愛する神・ゆるす神・限りない慈しみをもって救う神であり、そしてすべての人にそれを伝え、知らせるために、神がイスラエルの民を選ばれました。
今日の福音も「回心と黙認を見せる」ように招いています。 「時が満ちて、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」とイエスは宣言しています。 アンドレ、シモン、ヤコブにとっては、この呼び掛けは全世界の果てまで彼らを導く回心の道の出発点です。 イエスの直ぐそばでこの4人の弟子たちは、パウロが言ったことを理解するでしょう。 それは「この世の有様は過ぎ去るのです」と(参照:第2朗読)。 回心する人は何を捨てるかを解かっても、未来は全くどんなものになるかは解かりません。 そういう訳で回心はいつも信仰の過程です。 神だけが何処へ私たちを連れていくかを知っているので、回心する私たちは神に対して揺ぎ無い信頼を示さなければなりません。
今朝、私たちが歌った詩篇の言葉が私たちの祈りと行動を教え導きますように。 「神よ、あなたの道を示し、この小道を教えてください。 あなたの真理のうちに私を導き諭してください。 あなたは私を救ってくださる神。」(参照:詩篇25,4-5)。 アーメン。
年間第4主日 B年 2018年1月28日 グイノ・ジェラール神父
申命記18,15-20 1コリント7,32-33 マルコ 1,21-28
「皆さん、思い煩わないでほしい」と聖パウロは私たちに望んでいます。 イエス・キリストも繰り返して同じことを私たちに要求します。 「恐れるな、心配するな、明日のことまで思い悩むな。 明日のことは明日自らが思い悩む」(マタイ6,34)と。 私たちは疑うことなく、あっと言う間に私たちを圧迫し・反対し・邪魔し・意気消沈するものを遠くまで追い出すキリストの権威を持ちたいものです。 なぜなら、キリストの権威は、悪の力に対して開放し前進させ、奮起させる力だからです。
イエスの言葉に人々の心は動き、イエスをもっと深く親しく知りたいという望みを与えます。 イエスは今日聞いた申命記の朗読が約束した「モーセによく似ている」預言者です。 神はイエスの言葉の中にご自分の言葉を託した預言者だというだけでなくイエスは、肉となった神のみ言葉です。 イエスが来られたのは聖書について説明するためではなく、むしろ自分自身の存在だけで、聖書の教えを実現し、完成させます。 イエスこそが、すべての悩みや思い煩いから私たちを救い解放する「良い知らせ」です。
「カファルナウムの会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいました」。 この人が安息日に会堂へ行かないように悪霊は邪魔をしませんでした。 その男の心はまだ神に向って開いていました。 しかし彼を支配する悪霊のせいで、この人は完全に神と結びつくことができませんでした。 私たちは多かれ少なかれ、この人に似ています。 自分たちの内に良いものと悪いものが入り混じっているからです。 そのために、聖パウロが教えている通り、私たちにとっては完全に神と結びつくこと、そして「ひたすら主に仕えること」が至難の業です。 しかし、イエスは私たちの心の中にあるものを見分けています。 イエスは私たちの暗闇を照らす光であり、私たちを自由にし、あらゆる悪から解放する赦しであります。 イエスこそが全ての悩み・心配事・ 思い煩いを遠ざける平和です。
イエスは、あらゆる面で神と親しく結ばれ一致しているので、権威を持って教えています。 もし、聖パウロが望むように、私たちも神と親しい関係を結んでいるなら、そして「ひたすら神に仕える」なら、きっと私たちも「自由にする・赦す・守る・癒す」という、このイエスの権威を持つことが出来るのです。 事実、イエスの権威は特に私たちに示されている無限の愛に由来していることを良く分かっています。 またイエスの愛は神の計画に対する従順とそれを行なう謙遜のうちに絶えず力を得ています。 もし全ての不安、心配、悩みから解放されたいと望むなら、私たちもこの従順と謙遜の道を歩まなければならないでしょう。
謙遜に愛することや忠実に頼まれたことを実現すること、ひたすら神に仕えることこそが、私たちを全ての悩みと困難から解放する唯一の手段です。 神のみ言葉を自分の人生の土台としながら、イエスと友人としての親しい関係を結ぶなら、きっと私たちは平和と喜びを見つけ、それを味わうでしょう。 この喜びと平和を奪うものはないからです(参照:ヨハネ16,22)。
今日のミサ祭儀を通して出来るだけイエスの直ぐそばに近寄りましょう。 そして遠慮なく自分たちの傷、悩み、身体的や精神的或いは霊的な病気をイエスに隠さず見せましょう。 イエスは今もいつも、権威を持って、喜びと平和が溢れる新しい生き方に私たちを
導こうと望んでいるからです。 アーメン。
年間第5主日 B年 2018年2月4日 グイノ・ジェラール神父
ヨブ7,1-20、6-7 1コリント9,16-19、22-23 マルコ1,29-39
第一の朗読はヨブの嘆きや苦情を通して、困難と出会っている全人類の希望と抵抗の叫びを私たちに聞かせます。 病気と試練に直面して、ある人たちは勇気を持って反発し、他の人は諦め、また他の人は激しく反抗します。 昔から今日まで、神に向かって信頼を示す人がいれば、神に向かって怒りの叫びや嘆きを叫ぶ人がいます。 確かに、苦しんでいる人のうちには希望と怒りの叫びが混在しています。
イエスに倣って、キリストの教会は苦しんでいる人の叫びに耳を傾けるべきです。 試練と出会う人に対して、私たちは注意深くなるべきです。 コリント教会の信徒への手紙の中で、聖パウロは特にそれを私たちに願い勧めています。 「できるだけ多くの人を得るため」に、私たちはすべての人の僕になりましょう。 つまり、弱い人に対しては弱い人のようになりましょう。 病者に対するイエスの行ない方をよく見ることによって、苦しんでいる人に対して私たちは役立つ手助けを行なうことができます。 「手を取って人を起こす」ことは簡単ではありません。 イエスの助けと信頼で満たされた祈りがなければ、私たちの努力はすべて空しくなります。
確かに、イエスは夜通し祈っています。 イエスの祈りは病者を立ち上がらせ、悪霊を追い払い、希望を与える力です。 教会はイエスご自身から祈ること、病者を癒すこと、悪霊を追い出すことの使命を受けました。 それを私たちは充分に信じているでしょうか。 なぜなら、自分のために祈って欲しいと司祭に願う信者は、非常に少ないです。 同じように、病者の秘跡を求める信者は片手で数えられるくらいに少ないです。 さらに、悪い傾きから解放されるために、赦しの秘跡を受ける人も少ないことが目立ちます。 もし、イエスが私たちを立ち上がらせ、苦しんでいる人の近くに行かせ、そして、祈りの時を持つことを願うなら、それは私たちが人に希望を与え、人を慰め、そして、その人と何かを分かち合うためです。 と言うのは、ペトロの姑は癒されて直ぐ、自分の家に訪れた人の世話をします。 もし、イエスに倣って私たちが苦しんでいる人に手を差し伸べるなら、きっと彼らも癒された後、人生の試練と出会う人に手を差し伸べるようになるでしょう。 私たちがお互いに世話をし、助け合うために、確かに共感と慈しみを示すことは肝心なことです。 これも教会の一つの使命です。 私たちはどうしても互いを互いに強く結ばれた人とならなければなりません。
これこそ、光と喜びの泉です。 なぜなら、人のために私たちがするすべてのことは、世の終わりまで毎日毎瞬一緒にいるイエスによって支えられているからです。 自分のそばにイエスがおられるので、すべては新しい意味と値打ちを受け、喜びと平和と希望の泉となります。 今日もまたイエスは私たち一人ひとりに「『もはや、あなたがたを僕と呼ばない…友と呼ぶ』(参照:ヨハネ15,15)、『わたしの恵みはあなたに十分である』(2コリント12,9)。 あなたの人生を恵みとして受け止めなさい。 それを他の人と分かち合い、そして祈りと赦しの秘跡によって、その人生を私に委ねなさい。 そうすれば、あなたは神と自分自身を和解させられ、そして人々に心喜ばす深い平和を与えることができます」と言い続けています。 アーメン。
年間第6主日B年 2018年2月11日 グイノ・ジェラール神父
創世記3,16-19 1コリント10,31-11,1 マルコ1,40-45
新年の初めから聖マルコはガリラヤでのイエスの福音宣教活動を色んな面から紹介しました。 イエスは「神の国が近づいた」と宣言し、カファルナウムの会堂で教えます。 また、まことに神の国が近づいたことの一つの証拠として、大勢の病人を癒します。 更に悪霊たちを追い出すことによって、イエスはサタンの支配が終わったことを現しています。 らい病を患っていた人の癒しと清めによって、マルコの福音の第一章が終わります。 これからは、イエスはガリラヤ中を歩き回りながら、すべての人々に救いの良い知らせを宣べ伝えるのです。
イエスの心から人に対する共感が溢れています。 穢れのないキリストの手が、らい病を煩っている人に触れることで、彼を清くし新たにします。 この病者は律法上では不潔なものにされ、人間の社会から荒れ地に追いやられていました。 癒された彼は普通の生活に戻ることができます。 システィナ礼拝堂のミケランジェロのフレスコ画が示すように、キリストが人間に差し伸べる手は、人を癒し・清め・安らぎを与え・復活させます。 この救いの手は、いつも私たちに差し伸べられています。と言うのは、自分たちの信仰を支えるために、私たちにとっては具体的な印が必要ですから。 その具体的な印とは、たとえば私たちの頭に注がれる洗礼の水、キリストと親密に一致するために、司祭が私たちの手の中に置く命のパンである聖体です。 また、罪と死に対する命の勝利を思い起こす十字架の印もあります。 そして教会の秘跡が具体的にキリストの救いを表す全ての印です。 イエスは、昨日も今日も、信頼を持って切に助けを願う人を癒し・赦し・清め・救うのです。
福音の病人と違って、ある病気が私たちの肉や皮膚に害を与えません。 むしろ私たちの心の奥底に癌のような病が潜んでいます。 肉や骨を深く傷つける病気よりも、魂を深く傷つける悪の攻撃が、私たちの生きる自由と幸せをもっと酷く傷つけています。 イエスは特に、この病から私たちを救い・清めたいのです。 キリストの死と復活の光によって、私たちはイエスが与えようとする魂の健康を理解できると思います。 なぜなら、イエスは神の栄光のために、すべてを新たにするお方ですから。
このイエスのやり方を自分たちのやり方としましょう。 と言うのは、たとえ「神のみ言葉を」宣言することが肝心であっても、或いは神が私たちのためになさった不思議な業について証しすることが必要であっても、私たちの最も大切な勤めは、神の栄光のために宣言し、証しすることです。 ご存じのように、神の愛を宣言する人の中には、神戸の三宮付近で毎日曜日にスピーカーで自分の信仰を証しする「ものみの塔」のような喧しいやり方もあります。 しかし、私たちはキリストに対する忠実な生き方で、また良い行いと全人類のために奉げる祈りで、静かに謙遜に神に栄光を与え、「神の栄光を表しましょう」(参照:第2朗読)。 聖霊の力が私たちを通してよく働くように、私たちは役に立つ、目立たない、謙遜な救いの道具となりましょう。
ですから、私たちの行い・祈り・共感・思いやりが、聖パウロの模範を支えとしますように。 「わたしも、人々を救うために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのです」と。 この言葉を言いながら聖パウロは自分を模範とすることを私たちに願っています。 なぜなら、聖パウロの模範は、イエス・キリスト自身ですから。 「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と。 聖霊の助けによって神の栄光のために、まだ神を信じていない人々に対して、そして出会うすべての人に対して私たちも彼らの模範となりましょう。 アーメン。
年間第10主日B年 2018年6月10日 グイノ・ジェラール神父
創世記3,9-13 2コリント4,13-5,1 マルコ3,20-35
今日のマルコの福音は、イエスの家族について述べています、マルコは先ず血縁関係のイエスの親戚を紹介します。イエスの親戚といとこ達は、急にナザレの村から出てイエスを取り押さえに来ました。「この男は気が変になっている」と言っています。イエスが居る家の中に入らずに、彼らは外で立っていてキリストが出て来るように強く願っています。
次にマルコは、イエスの本当の家族を紹介します。神の言葉を受けるためにイエスの直ぐそばに集まっている人はキリストの家族です。しかし、人々がとても多いのでイエスと弟子たちも宣教のために夢中になって食事をする暇もないほどでした。
最後にマルコはキリストとの関係を拒否する人々やイエスに反抗している人々を紹介します。彼らも離れた所で立ったまま、イエスの言葉と行いを批判します。「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言っています。
弟子たちはイエスの本当の家族です。なぜなら、家の中に居てイエスのそばに集まって彼らは何も言わずに、何も批判せずに、何も要求せずに、注意深くイエスの教えに耳を傾けています。イエスを囲んで輪をつくって座っている人々は、知らないうちに既に教会として集まっているのです。マリアとマルタの家の食事の出来事(参照:ルカ10,38-42)を思い出すと、この人たちは一番良い方法を選んだことを私たちは解っています。神が遣わされたイエスの教えを聞くことで、彼らは神のみ心を行っています。そして、イエスの弟子たちであった彼らはアッという間にイエスの兄弟、姉妹、また母となっています。
マルコはわざとイエスの話を聞く人々と、それを拒む人々の間にある隔たりをはっきり見せます。キリストの使命を理解しない人は、「あの男は気が変になっている」とか「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言って、自分たちを正当化します。イエスは弟子たちが自分と強く結び合う繋がりを自覚することを望み、誘います。勿論、当たり前のことで、イエスは血縁関係の親戚と弟子たちとを決して対立させません。大切なことを理解させるために、イエスは血縁関係(兄弟、姉妹、母)の言葉をわざと使います。キリストが理解させたいことは、霊的な絆も親戚の絆も大切ですが、霊的な絆は遥かに血縁関係に勝っていることを理解させたいのです。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(参照:マタイ10,37)と、イエスは言いました。神の国のことを伝えることに関して、家族的な繋がりは大切ですが、絶対的なものではありません。
信仰によって私たちは、イエスの本当の家族となりました。イエスに親密に結ばれ、聖霊によって強められている私たちは、神の言葉を注意深く聞くことによって神のみ心を行うことができるのです。私たちの信仰生活の目的は、日常生活の様々な出来事を通して神のみ心を発見し、喜びの内にそれを実践することです。それを実現するために、イエスの母マリアに倣いましょう。母マリアはいつも神の言葉に対して、注意深い人でした。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(参照:ルカ1,45)と彼女のいとこであるエリザベトは言いました。また、マリア自身が私たちもそのようにするように招いています。「イエスが何か言いつけたら、そのとおりにしてください」(参照:ヨハネ2,5)と。
イエスの兄弟、姉妹として、父なる神に感謝しましょう。神は聖霊の交わりの中で、私たちを唯一の聖なる家族として集めているからです。アーメン。
年間第11主日 B年 2018年6月17日 グイノ・ジェラール神父
エゼキエル 17,22-24 2コリント5,6-10 マルコ 4,26-34
今日の典礼が紹介する朗読を理解するために聖パウロは大切な鍵を私たちに与えました。 「わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。 目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」と。
しかし、強い心をもって信仰によって生きるには、どのようにすればいいのでしょうか。 預言者エゼキエルは、信頼と信仰のしるしとして神の働きを上手に説明しました。 神は小さな梢を切り取って、空の鳥がそのもとに宿る大きな木になるために、この枝を土に植えます。 柔らかい若枝は高くそびえた強い木になりました。 希望と信仰は、このようなものです。 私たちが持っている信仰を育て続けるように、今日の詩編は大きな木の象徴を与えています。 「神に従う人はなつめやしのようにさかえ、レバノン杉のようにそびえる」と。 ですから、神が私たちのうちにいて、私たちのために働いていると言うことを知ることは信頼の第一歩です。 したがって、救いを与える神の働きを妨げないように気をつけましょう。 そして、父なる神の創造的なみ手に、信頼を持って、自分のすべてを委ねましょう。
福音の最初のたとえ話は、私たちが持つべき信頼をはっきり示しています。 土に種を蒔く人はこの種がひとりですくすくと成長することをよく知っています。 「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知りません」。 隠れた目立たないやり方で、神は私たちのうちや私たちの回りに働いています。 私たちが気づかないうちに神は安全に愛の完成まで導きます。 言い換えれば神は必ず、私たちを平和・喜び・光・永遠の命である国に導くのです。
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。 しかし、成長させてくださったのは神です」(参照:1コリント3,6)と聖パウロはコリント教会の信徒に説明しました。 勿論、すべてが順調であるために私たちの協力が必要です。 しかし、ただ神だけがすべてを行い完成させます。 ですから、神が私たちのうちに自由に、効果的に働くように、ありのままの私たちのすべてを彼のみ手に委ねましょう。
ひとりで成長する種のたとえ話から汲み取れる教えは、忍耐と我慢強さです。 インドのことわざが次のように教えています。 「川が自然に流れるので、特別に川の水を押し流す必要はありません」と。ですから、すべてをコントロールしないように、また私たちに対する神の計画を邪魔しないように気をつけましょう。 むしろ私たちの内にすくすくと成長している神の国の神秘をいつも感謝のうちに仰ぎ見て賛美しましょう。 「主よ、造られたわたしは何という驚くべきものでしょう。 わたしは心からその偉大な業をたたえます」と詩編139番は正しく教えています(参照:詩編139,14)。
今日のすべてのたとえ話を通して、「真の偉大さは目立たない、小さな物事の中にある」と、聖マルコは教えようとしました。 とても小さくて、見つけ難い一粒のからし種は、成長すると空の鳥の避難所となるような大きな木になります。 私たち一人ひとりの内には、人を聖化する小さな種が蒔かれているとイエスのたとえ話が悟らせようとします。 この種がますます成長するように、神は全力を尽くしています。 ですから、神に感謝しながら、イエスの言葉の光と聖霊の力が私たちに与えられるように切に願いましょう。 謙遜な心で希望の喜び・信仰の忍耐・愛の豊かさを守り育てましょう。 アーメン。
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